甘いもん好きおやじのブログ

日常の面白いことを描きます。

【20年前】20年前の思い出-漫画家を目指してたことについて

20年前、大学生の頃、私は漫画を描いていました。
子供のころから、絵を描くのが好きで、いずれは漫画家になりたいと思っていました。
大学生になって、時間が出来たのと、アルバイトでお金が貯まったので道具を揃えて、本格的に描いてみようと思いました。
夢見てるだけじゃダメなんで、実際に行動に移したのです。

調べてみると、漫画家になるには以下の方法があるようでした。
・出版社への持ち込みで認められる。
・雑誌の賞に応募して、賞を獲る。

今だったら、
・ネットで公開
という方法もあったのでしょう。

今みたいにネットが発達していて、誰もが漫画を公開できる環境では無かった頃の話です。
※ちなみにインターネットはありましたが、大容量の漫画原稿をアップロードするほどの太い回線も、公開する場も無かったです。

出版社への持ち込みも考えましたが、福岡に住んでいるので、金銭的に無理でした。
漫画雑誌を発行している出版社は、そのほとんどが東京にあるからです。
飛行機代、新幹線代を考えると、大学生のアルバイト代では難しい。

最後に残った選択肢は、雑誌の賞に応募することでした。

私は、最初に描いた第一作を、売り上げNo1の少年雑誌に投稿しました。
3カ月かけて描いた30Pの原稿を、小包として郵便局から送ったのです。
1、2カ月経っても音沙汰は無く、賞発表の号にも、私の作品名は掲載されていませんでした。
自信作でしたが、今考えると、へたくそで面白く無い漫画だったと思います。

それから、自分は少年漫画よりも、青年漫画が好きだということに気付き目標を、青年雑誌に変更しました。

その漫画雑誌に、投稿すること4回、月一ペースで発表していました。
ただ、何の音沙汰も無ければ、賞に引っかかることもなく。
そうこうしていると、ある日、家の電話に出版社から連絡が入りました。

「毎月投稿してくれてありがとうございます。
 あなたの漫画は、ちょっと一般受けしそうにないですね。
 もうちょっと、日常のことを描いたほうが伝わりやすいですよ。」

というアドバイスを、編集者の方から受けました。
普通は、受賞しないと出版社から連絡は来ないのですが、毎月投稿している私の熱意が伝わったから、アドバイスしたくなったとのことでした。

アドバイスは嬉しかったし、編集者の方からの思いもしない電話で緊張してしまいましたが、、、同時に自分の漫画はやっぱり、面白くなかったんだなと気付かされ、落ち込んでしまいました。

一カ月くらいは、漫画から遠ざかっていましたが、ふと、また描いてみたいという欲望が沸き上がってきました。
今度は、もっと分かりやすい話、そうだ学園ものにしようと思ったのです。
今までは、SFというか自分のオリジナルの世界で、架空の動物やらが活躍する漫画だったりしたので、それが読者に伝わりにくいと判断されていたのでしょう。
私は、ずっと漫画は斬新でなければならないと考えていました。
というのも、漫画募集記事に載ってる編集者の
「今までにない漫画を読みたい」
というコメントを真に受けたからでした。
このコメントの真意は、
「皆が面白いということを踏まえた、今までにない漫画」
ということだったのだと思います。
それは、突飛な設定や、観たことないキャラクターではないのです。
私は、冷却期間の間に、そのことに気付きました

ということで、描き上げた作品は、学園恋愛ものという無難なものになりました。
そして、この作品で、初めて賞を取ることが出来ました。
この前、電話をくれた編集者の方から連絡が来ました。

「なかなか、面白かったです。こんな感じで頑張ってください。」

とのことで、その人が私の担当編集者になることになりました。
この後、調子に乗って同じような話を3作品ほど投稿し、それぞれ小さいですが同じ雑誌の賞に入りました。

ここで、編集者の方が、

「そろそろ、本格的に雑誌に載せてみたいと思うので、会議で提案してみます。
 ネーム描いてください。」

ネームとは、絵コンテというか、シナリオの下書きみたいなものです。
鉛筆で、ラフにコマ割と、セリフと、登場人物を配置して、概要だけわかるようにしたものです。
編集者の方は、それを読んだだけで、面白いかどうかわかるらしいです。

私は、初めて自分の作品が、雑誌に載ることを夢見て、その日から毎日ネーム作業に取り掛かりました。
描いては送り、描いては送りを繰り返し。

「全然、面白くない」だの
「ワンパターン」だの

言われる始末でした。

難しいのが、学生とアルバイト経験しかない自分は、学園ものくらいしか描ける題材が無いのです。
とか言うと、若くしてデビューして成功してる漫画家もいるので、ただの言い訳かもしれませんが、、、ここが私のレベルだったのです。

悩みながらも、何とか描いた1作を、ついに会議で検討してもらえることになりました。
あの時の喜びは、今でも覚えています。

それから、いつ連絡が来るのかを、ヤキモキしながら待つ日々です。
私は、当時携帯電話なんて、持ってませんでしたから、家の電話を待つのです。
しかも、留守電ではないから、日中に来てたのかなー、とか思ったり。
そうこう待っているうちに半年が過ぎようとしていました。
と同時に大学卒業も近づいていたのです。
とある会社に内定が決まっていましたが、このまま就職しようか、漫画の件もあり悩んでいました。
甘い考えですが、もし、漫画が雑誌に載ることがあれば、私は内定を取り消して、本気で漫画をやろうと決意していたのです。

卒業を控えた3日前、返事が来ないなら、こちらから訊こう、と決意した私は、
出版社に電話することにしました。
東京03という市外局番を、ダイヤル式の電話で、、、
これほど、緊張した電話も、生まれてこの方ありませんでした。
スリーコールの後、電話がつながりました。

「はい、○○出版です。」
「あの、△△さんの担当で、漫画を描かせていただいてる××です。
 △△さんをお願いいたします。
今だったら、何でこんなにへりくだってたんだろうと思います。
描かせていただいてるって、、何だ。。。
若くて、世間知らずだったのです。

△△です。」
××です。私のネームは会議でどうなりましたか?
「ああ、あれ、ちょっとだめでしたね。」

軽い感じで、今思い出したかのように言う△△さん。
△△さんにしてみたら、沢山の漫画の中の一つなのでしょう。
学生の時は、こういった態度も腹が立ちましたが、社会人として仕事している今、仕事として漫画を捉えるのなら、仕方ないのかなと思います。

売れるものは覚えられ、売れないものは忘れ去られていくのです。

そのあと、何を話したかよく覚えていません。
ただ、早く電話を切りたかったのを覚えています。

その後、私は、大学を卒業し、就職しました。
ある日、仕事から帰ると、出版社から、今まで投稿した漫画が返送されていました。
私は、おもむろに封筒から漫画を取り出すと、ゴミ箱の中に捨てました。
よく考えると、4年間やってきて小さい賞しか獲れなかったのだから、ここが潮時かなと思ったのです。


それから、20年後、趣味の社交ダンスサークルでの飲み会で、昔私が漫画を描いてた頃の話をしたところ、是非、社交ダンスの漫画を描いてくれと言うことになりました。

言われると、沸々と描いてみたいという欲望が湧いてきました。
何より、今度は読者がいます。
20年ぶりに描いてみました。

その画像データが今も残ってます。
※原稿はダンスサークルの人にあげました。
こんな感じに。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4


、、、まあ、皆には受けました。
仕事から終わって、これを描いてる時は懐かしさと楽しさがごちゃ混ぜになったような、不思議な感覚でした。
ただ、単純に描くという作業は、とても良いですね。
同じサークルの方から、資料としてダンス雑誌を貰ったり。
こういったやり取りは楽しかったです。

今は、ネット環境も整って、誰でも作品をすぐに発表出来て、それを見つけてくれる人がいるいい時代になりました。
反応が、コメントとか「いいね」マークという形で、すぐダイレクトに伝わるというのは、ある意味シビアではありますが。
作品を投稿してから、反応が出るのが半年後、、、よりはいいなあと思います。

ただ、
あの頃の、
墨にまみれて描いた作品を、郵便局から小包で郵送という泥臭い経験も、
発表の場所が主に雑誌だけという制約も、
今となっては貴重だなと思います。